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歌舞伎の歴史に深〜く浸かってみよう
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| ややこ 踊り |
近世初頭、戦乱で死んでしまった人達の魂を祭る御霊会(ごりょうえ)に伴った風流踊りが全国的に流行したものが基となり、出雲のお国と名乗る女性芸能者が京都に上がり単純な小歌踊りを美しく舞い踊った芸能をややこ踊りとして一座を率いていた。当時流行していた歌舞伎者の風俗を舞台用に作り上げた歌舞伎踊りを踊って貴族大衆から熱狂的な支持を受ける。能と同じ舞台を用い、楽器は笛、小鼓、大鼓、太鼓だけであった。 |
| 遊女 歌舞伎 (女歌舞伎) |
都市に遊里(新宿の歌舞伎町のようなところ)が出来ると、そこから大勢の遊女が出て華やかな張り見せショーとも言うべき舞台を展開し、これを遊女歌舞伎と呼んだ。この頃になると伴奏に三味線も加わり、遊女達は芸団を組んで地方に下って巡業した。各地方都市にも土着の遊女歌舞伎の座ができ、全国的に流行した。幕府は風俗を乱すとの理由で他の女性芸能とともにこれを禁止した。 |
| 若衆 歌舞伎 |
遊女歌舞伎に変わって前髪をつけた美少年達による踊りや狂言の芸能である若衆歌舞伎が台頭してきた。若衆歌舞伎は主に舞や軽業などの芸を演じた。しかしこれも衆道の売色をかねていた為に女歌舞伎同様禁止された。 |
| 野郎 歌舞伎 |
若衆歌舞伎が禁止されると若衆の象徴である前髪を剃り落して野郎頭になること、物真似狂言尽を演じることを二条件に受け入れ再開される。これ以後を野郎歌舞伎という。野郎歌舞伎時代に女形の写実的な演技術が模索されるとともに、立役、敵役その他の役柄が次第に成立し、それぞれの演技の工夫が進み、以前の風俗スケッチ的寸劇から一定のストーリーを持った劇的世界を獲得するにいたる。この時代に劇中の時間的飛躍を示す記号として引き幕が用いられるようになった。 |
| 元禄 歌舞伎 |
元禄時代、江戸、上方(京都)それぞれ独自の様式が生まれ、内容の複雑化に伴って役者の役柄が分化整備され、演技術が確立する。江戸では荒事、上方では和事の演技様式が確立された。この頃の歌舞伎では、写実的な芸が重んじられた。敵役や、道化方の芸が確立し、重んじられた。この頃に演劇としての飛躍的な発達を遂げている。 |
| 享保の 改革 |
享保から宝暦にかけて幕府からの弾圧にあい、また大阪を中心に人形浄瑠璃が栄え歌舞伎は沈滞期になる。仮名手本忠臣蔵(かなてほんちゅうしんぐら)、義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)、菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)、など人形浄瑠璃の作品を歌舞伎に移行した丸本物の代表的な作品の大半のものはこの時期に創作されている。またこの時期に所作事が確立し、舞台装置が発達し、セリ上げ、廻り舞台が工夫され、変化に富んだ作劇や演出が可能になった。 |
| 天明 歌舞伎 |
明和から天明にかけて大らかでのんびりした作劇、芸、演出が喜ばれいわゆる天明歌舞伎が繁栄する。全体的に華やかで、洒落で機知に飛んでいて、奇抜な趣向を立てることに優れ、会話も軽みを主としてすらすらと運ばれる作品が特徴である。この頃から立役も舞踊を演じることが普通になる。 天明末から寛政にかけて演技演出に写実的傾向が現れた。これはその後の生世話物の演技様式の基となった。それまでの江戸歌舞伎では、綯い交ぜ(ないまぜ)(1番目に時代物、2番目に世話物をやり、両者を一つの筋でつなぎ、一つの題名で一日の狂言として作っていた)で構成されており、一番目と二番目に何らかのつながりを持たせる必要があり、筋立てに非合理な面があったが、上方の作者処世並木五瓶が上方ではすでに行われていた一番目と二番目にそれぞれ題名をつけ、内容を切り離し、写実的合理的な構成、テンポのある筋の運びの作風を江戸歌舞伎にもたらした。 |
| 文化文政 歌舞伎 |
作者四世鶴屋南北によって江戸歌舞伎の伝統だった綯い交ぜの構成法を用いながら五瓶によってもたらされた写実的手法をより徹底させて独自の作劇術を生み出し生世話が確立した。彼の作品には残酷、非情、狂気、怨念など人間の悲しさ、はかなさ、むなしさを描く反面、本能的な欲望、強靭さ、したたかさを日常的な生活描写と相俟って生々しい迫力をもって描かれている。濡れ場、殺し場、責め場など官能的な演出で行い、また爽快でスピーディーなテンポで見世物的演出を行い奇抜な趣向、大道具の仕掛け、小道具の仕掛けなどを劇の中で駆使した。また彼は、色悪、悪婆という新しい人間像を確立した。またこの時代、変化舞踊が大流行し、一人一役の原則が崩れ、いくつもの役柄をかねて演じ分ける事が名優の資格のように考えられるようになっていき、ケレン、早替りなど、スピーディーな転換を好まれるようになった。 |
| 猿若町 時代 |
それまで芝居を行っていた中村座と市村座が焼失したのを契機として天保の改革の一環により芝居取り潰し計画にあった。取り潰しは免れたが、浅草の猿若町に強制移転させられ、その後森田座が新富町へ移転するまでの約三十年間を猿若町時代という。この時代、作者河竹黙阿弥が、鶴屋南北の作風を受けながら多くの写実的な世話物を作る反面、七五調の美しいセリフを朗々と歌い上げる演出を施し、清元の浄瑠璃や竹元の利用、さらに下座音楽を多様化し、主情的な音楽劇風の演出を多用した。 |
| 近代化 の時代 |
明治維新以後、政界、財界、文人達の後援の基に演劇改良運動が起こり、従来の歌舞伎の特徴であった非合理的な筋立てと卑俗な内容をやめ、誇張された様式的演技術を廃止し、高尚趣味と写実的、合理的な演技術を用いて新時代にふさわしい演劇を作り出そうとした。かつてのような類型化された人物創造を廃止し、性格や心理描写に力を入れたものや、明治の新社会の世相や風俗を映したものが生まれたが一般大衆の心をつかむ事が出来なかった。 |
| 新歌舞伎 | 明治の末から伝統的な歌舞伎の内容を否定し、西欧の近代文明から学んだ思想や文芸思潮を主題として注入するけれども、演技演出の様式は出来るだけ伝統的な方法を生かそうという動きが起き、これを新歌舞伎と呼んだ。これ以後も関東大震災、第二次世界大戦など幾度となく歌舞伎の危機が叫ばれたが今日まで商業演劇としての中心的地位を保っている。 |
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